贈り物や人からの施しを単に“モノ”と捉えていませんか?
「あっ、前にも見たことあるやつだ」
綺麗な景色、お洒落な小物、美味しそうな料理・スイーツ、その他の感動的な創作物や体験。感動や驚きはないことはないのだけれど、どこか既視感を抱いてしまう。そんな経験はございませんでしょうか。
SNSをはじめとするインターネット経由の情報網の発達、痒いところに手が届くようなネットサービスの充実で、便利で快適な生活が送れるようになった反面、感動や人に何かを施されることに対し、鈍感になってきているという側面もあるのでしょう。
・手料理よりテイクアウト品
・欲しいものは買ってもらうのではなく自分で買う
・困った時は、身近な頼れる人よりネットサービス
便利さや快適さが加速するほど、新たな体験や感動が薄れ、「もっとよいもの」を求める傾向は加速していくと思います。例えば、極端な言い方をすれば料理ひとつ見ましても、恋人が作ってくれた煮物よりも、スーパーやコンビニで売っている揚げ物などのお惣菜という風に、モノだけ見て判断してしまうと、恋人<コンビニ・スーパーという構図になりそうですね。
同様に、クリスマスなどのプレゼントを考えましても、計算高い方ですと、咄嗟に値踏みをし、値段が高いと判断できるものだとオーバーなくらい喜び、安いと反応が薄くなりがちということもあるでしょう。こういった方というのはですね。人からの贈り物や人の行為を単なる“モノ”と捉える方々でしょうね。
それもひとつの物差しでダメではありません。
ただ、お金も含めて人が関わる全てのことには、それに関わっている人の思いが少なからずあり、そういったモノに込められた思いに気付けないというのは、人間関係で損をしているのではないかと思うのです。会話はキャッチボールとはよく言われますが、その他の行為につきましても同様ではないでしょうか。言葉に限らず、相手からの思いを受け取ったならば、それを相手の心というミット目がけて投げ返す。これがコミュニケーションの基本であり、すれ違いをなくすための共通の方法です。人の言葉や行為の背景にあることに思いを馳せてみると、モノの価値を画一的には見れなくなるでしょう。
恋人が健康や栄養のことを考慮して作ってくれた料理、「いつも寒いだろうな」と思ってプレゼントしてくれた手袋やマフラーなど。忙しかったり、薄給だったり、それぞれの思いや状況に考えを巡らせてみると、モノの価値はまた違ったものになって来ますし、相手もそういった自分の思いに気付いてくれる人に対し、自分の思いが届いた喜びと特別な感情を抱かずにはいられないのではないでしょうか。
(記事:スタッフ)